ベンゲット州トゥバ町キャンプ1村&キャンプ3村

ベンゲット州トゥバ町は広範囲に広がっています。バギオとマニラをつなぐ、マルコス・ハイウエイ沿いだけでなく、ケノンロード沿いもトゥバ町です。

ケノンロード沿いのトゥバ町とイトゴン町にまたがってフィリックス鉱山という大きな鉱山開発会社が50年以上前から操業を続けており、環境へのインパクトは大きなものです。

鉱山会社はCSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)として、地域の先住民を対象としたさまざまな活動を行ってきました。コーヒー栽培もその一つでしたが、品質に関する講習会などに参加したことがなく、安い値段で長い間コーヒーを販売してきました。地域の農家の有機農家団体MOFSAIのコミュニティリーダーの方たちが、CGNの活動の話を聞き、2018年コーヒーセミナーに参加しました。

コミュニティリーダーの人たちのコーヒー生産への関心は高く、CGNは栽培とマーケットサポートをすることになり、2019年から、環境NGO「マナラボー環境と平和の学びデザイン」とともに、独立行政法人国土緑化推進機構の緑の募金公募事業のサポートを受け、アグロフォレストリーによる植樹プロジェクトを2020年6月から開始しました。新型コロナウィルスの影響を受け、プロジェクトは遅延しましたが、2021年度も継続しています。

2020年度にキャンプ1村、キャンプ3村で植樹したのは、カリエンドラ(オオベニコウカン)4,000本、アルヌス(ハンノキ)4,035本、アラビカ・コーヒー10,003本です。このうちアラパン共有林に2,000本のカリエンドラ、ティンマゴン共有林にカリエンドラ2,000本とアラビカ・コーヒーの苗木250本が植えられました。またトーレ小学校の敷地に50本のアラビカコーヒーが植えられ、そのほかは、個人の所有地にアグロフォレストリーの手法で植えられました。

コミュニティリーダー・オズモンドさんのインタビューから(2020年6月)

バギオ市からケノンロードを通ってマニラ方面に1時間半ほど降りたあたりから、いきなり急斜面の細い道を30分ほど上がった標高1500メートルくらいのところに位置する。斜面の傾斜は想像を絶する。雨季には苔が生え、タイヤがスリップし危険が伴うこともあるという。

ケノンロードは日本と大変かかわりの深いところだ。戦前、フィリピンがアメリカの支配下にあったときに、灼熱のマニラを逃れたいと標高1500メートルにあるバギオ市に避暑地建設を計画し、ケノン大佐の指揮でバギオに向かう道として建設されたのがケノンロードだ。完成は1905年。

その建設にはそのころミンダナオ島でマニラ麻の栽培のために働きに来ていた多くの日本人が労働者として関わった。急峻な山をダイナマイトで吹き飛ばして行われる道路建設工事は大変危険なものだったという。工事に関わった多くの日本人は、ケノンロード完成後もフィリピンに残った人が多かった。いまでも日系人コミュニティを築いている。

 

以下は、コミュニティリーダーの一人オズモンドさんのキャンプ3村の歴史とコーヒーについてのインタビュー。

事業地のキャンプ1、キャンプ3村という名前は奇異に思えるが、その工事中に作られた飯場のあった場所で、その呼び名がいまでも使われている。

山のてっぺんにあるこのキャンプ3村は、第二次世界大戦中に日本軍が武器倉庫を持っていたところだ。私が子供のころには、まだたくさん塹壕の跡があった。私が住むトーレという集落の名前も日本兵がつけたと言われている。トーレはイタリア語で「高台」の意味。なぜイタリア語の名前なのかは謎だ。

 

日本軍に村が占領されたとき、先住民族のイバロイ族の人たちは散り散りに山の中に逃げた。山の中で食べ物を探して生き抜き、終戦を迎え、村に日本軍がいなくなったのを確認して村に戻った。 

もともとこのあたりでは金が出た。村の人は手掘りで金を採掘してきた。そこに目を付けて大きな鉱山開発会社Fhilex Mining Corporationがやってきた。試験採掘などを経て操業を本格的に始めたのは1958年。会社の人はこの村のイバロイ族を坑夫として雇用すると言った。しかし、誇り高きイバロイ族の人たちはそれを断った。会社は、そのほかの地域から鉱夫を雇った。山岳地方ではイフガオ州、遠く南はビサヤ地方からもたくさんの人が坑夫としてやってきた。この村の一部の地域は、先住民のイバロイ族以外の人が暮らす鉱山労働者の集落となった。あっという間に、鉱山会社は隣町とまたがる広大な地域で大規模な露天掘りを始め、後で知るのだが猛毒である水銀やサイナイドを使う精錬所を作った。この会社は、60年たった今でも、コーディリエラ地方で操業を続けている二つの鉱山開発会社の一つだ。

坑夫として働くことを断って以来、この二つの村の人たちは、農業を主な生業としている。生活の苦しさから鉱山会社で働くことを選んだ人もいたが、多くは先祖から受け継いだ土地を守るために、耕し続けてきた。しかし、露天掘りや精錬工場のせいか、村の水源は枯れ始めた。

この村にあるコーヒーノキは、100年前に植えられたものもある。その時代から、村人たちが自分たちで飲むため、そして、売って収入にするために植えてきたものだ。品種はティピカといわれる品種が多い。(※注:交配が進みどんどん新しい品種が生まれるコーヒーの世界で、もっとも原種に近いもので、いまでは希少種とされているもの)  

時代は変わり、環境問題がここ20年くらいの間に取りざたされるようになった。環境負荷の大きい鉱山採掘会社は操業を継続するために環境アセスメントが欠かせなくなった。鉱山会社は環境面、経済面で大きな負担を強いることになっているこの二つの村へのCSRによるプロジェクトを開始した。道路建設、水路整備などのプロジェクトともに提案されたのが、コーヒー栽培だった。苗木が鉱山会社から支給され、関心のある村人たちが植えた。20-30年くらい前のことだ。

コーヒーの収穫量が増えてきたとき、鉱山会社はCSRの一環で古いタイプの果肉除去を行うマニュアルの中古の機械を5つほど支給してくれた。しかし、性能が悪く赤い実をその機械にかけても種と果皮はきちんと取り外されず、手で一粒ずつ皮を外す作業をしてきた。今も多くの農家が杵と臼で収穫後の皮むきの作業をしている。とても根気のいる仕事だ。

収穫物は乾燥したパーチメントの状態で鉱山会社が購入してくれた。大変な作業のわりにいい価格とは思わなかったが、それなりに村人たちの収入になっていたので、コーヒー栽培を続けてきた。生産量は今年は二つの村を合わせて、パーチメントの状態で1300キロくらいとなる。(注:殻をとって生豆にすると20%くらい重さが減る) 

ここ5年くらいの間に、コーディリエラ地方、とくにベンゲット州では、よい副収入になるとしてコーヒー栽培がブームとなっている。話に聞くと、自分たちが売っているよりずっといい価格でバギオでは取引されていると聞いた。しかし、それはコーヒーの品質によるという。収穫後の精製の方法にも、いろいろとコツがあり、それによって価格が変わるという。しかし、その知識や技術を教えてくれる人はいなかった。

そこでコミュニティでのコーヒー栽培と収穫後の精製の指導をしているというバギオ市の環境NGO「コーディリエラ・グリーン・ネットワーク(CGN)」を訪ねてみることにした。連絡をしたところ、コーヒーの品質評価の仕方を教えてくれるワークショップがあるというので、お願いして参加させてもらった。2019年2月のことだ。

ワークショップでは、自分たちが日ごろ飲んでいるコーヒー(やかんの煮だし)とは全く違う飲み方をしていた。砂糖も入れない。わからないことだらけだったが、こういうコーヒーの世界があるのだと知った。CGNは、昨年、会社より高い価格で昨収穫期のパーチメントを買ってくれた。あとで、「品質はあまり良くなかったが、ファーストラックのボーナス価格」だと笑って言われた。 

高く売れるコーヒーを作り、村人の暮らしがよくなるのだったら、何でもしようと思う。もっとコーヒーの木をたくさん植えたい。お金になることがわかったら、もっと多くの村人たちも植え始めるだろう。簡単なものでもいい、皮むきや殻を除く機材、乾燥に必要なネットなどがあって、収穫後の作業に関わる重労働が軽減されたらもっとたくさんの人が関心を持ってくれると思う。とくに資源が枯れて雨頼みになり、乾季の農業が難しくなっているキャンプ3村は、コーヒーのアグロフォレストリー栽培に転換していきたい。

コロナ感染の拡大で、町で働いていた多くの若者が村に戻ってきた。運転手や店員、飲食店で働いていた人の多くがこのパンデミックで職を失ったのだ。帰ってきたものたちは、みな植え始めた。効率を求めて、焼畑を行い、サヨテ(ハヤトウリ)を栽培するものが多い。斜面でも棚で育ち、毎週のように年間を通して収穫ができるからだ。

コーヒーは1年に1回しか収穫ができない。その収入だけでは暮らしていけないのが現実だ。しかし、このまますべての森が焼き払われサヨテ畑になってしまったら、水源の枯渇は免れない。自分たちの暮らしも危うい。

私たちはイバロイ族として、鉱山会社にも組み込まれず、先祖から受け継いできたこの土地を守りたいと考えている。そのために、コーヒーノキを森の中に植え続ける。 

クラウドファンディングでパルパー2台をキャンプ3村に支給。
クラウドファンディングでパルパー2台をキャンプ3村に支給。
キャンプ1村にも2台。
キャンプ1村にも2台。