コーディリエラ・コーヒーの歴史

by マウリス・マラネス / 中村みどり / ジョン・タクロイ

 

 フィリピンにコーヒーを伝えたのはスペイン人であると言われている。

 1740年代、メキシコからマニラを経由したガレオン船で渡航していたフランシスコ会の修道士が、フィリピンに3ガンタ(注:容量を量る単位。1ガンタ=3リットルくらい)のコーヒー豆を持ち込み、それらをマニラのどこかに植えた。彼の死後、使用人のひとりがコーヒーの木を掘り出し、彼の父の土地、バタンガス州リパのピナグトンゴラン(Pinagtongolan, Lipa, Batangas) に移植した。

 野生のコーヒーの木は、タガログ圏の南部で1818年には見られたという記録がある。これらは、アラビアやインドネシアから、バタンガスやラグーナあたりで取引をしていたアラブの商人によって持ち込まれたと信じられている。やがて、コーヒーはフィリピンのほかの地域でも見られるようになる。

 フィリピンのコーヒー産業の起源は、バタンガスのリパ市である。リパは1749年にフランシスコ会修道士がメキシコから持ち込んだコーヒーの種を植えた初めての場所であると言われている。この地に、ドン・ガロ・デ・ロス・レイエス(Capitan Don Galo de los Reyes)によってコーヒーの栽培が推し進められ、のちに町の三分の二がコーヒー農園となった。ちょうどその時期、世界がコーヒー不足に陥ったため、コーヒーは大きな収益をリパ住民に与え、リパ住民はフィリピンで最も裕福となった。リパのコーヒー生産者と商人たちの栄光の日々はバゴンボン(bagombong)という害虫が蔓延し、リパのコーヒーのほとんどを全滅させたことによって終焉した。

 

コーディリエラ・コーヒーの伝来

 

ベンゲット・オーガニック・アラビカコーヒー有限会社のカプリアーノ・バヤンガンCipriano Bayangan氏の調査によると、ドミニコ会修道士が、山岳地方の豊富な金や鉱物資源の調査も行う中で、ベンゲットにアラビカコーヒーを紹介したという。彼らは金探索のために、マンカヤン町のレパントに向かう登山道を開いた。ルートは以下の3つ。

1. パンガシナンからアグノ川(現在のサン・ロケダム)に沿って北上し、イトゴン ボコッド、カバヤン、ブギアスを通るルート

2. ラ・ウニオン州ナギリアンから登りサブラン、ラ・トリニダード、トゥブライ、アトックそしてマンカヤンへ向かうルート

3. ラ・ウニオン州サン・フェルナンドからスディペン、セルバンテス、そしてレパントへ向かうルート

 これらの登山道の建設の経路で、スペイン人は“トレス・ディアスtres diaz”(3日)という3日間の強制労働を男性・女性労働者に課して登山道の開通を行った。その結果、多くのコミュニティが、生計手段として、小規模な鉱山開発(ポケット・マイニング)と同時に、裏庭でのアラビカコーヒーの栽培を開始したのである。この流れはボントクとしれ以北の地域にも伝わった。

 

 アラビカコーヒーがサガダに到着したのは、ほかの種類のコーヒーが低地に紹介されたあとである。サガダにアラビカコーヒーが伝わった話には三つのバージョンがあり、これらの話はサガダの人々によって語り継がれてきた。

 最初の話は以下のようなものだ。

 1895年ごろ、二人のスペイン元兵士、マルデル・モルデロ(Manuel Moldelo)とヴィラベルデ(Villavelde)がアラビカコーヒーを紹介し、それがサガダでのコーヒー生産の起源となった。スペイン派遣隊の指揮官であったハイメ・マスフェレ(Jaime P. Masferre)もまたコーヒー栽培に乗り出し、多くの現地住人を彼のコーヒー農園で働かせた。その後、コーヒーの苗木はほかの村人との結婚やそのほかの社会交流の機会に、サガダの多くのコミュニティに広がった。こうしてアラビカコーヒーは多くの家庭の裏庭に植えられ、特にサガダの北部で広く普及した。

 

 もうひとつの話では、以下となる。

 時は1800年代後半。イロコス・スールは北ルソンの重要な交易地であった。その当時、交易はスペインの管轄下にあり、多くの人がマウンテン州からイロコスへとやって来て、肉などの生産物と、自分たちの土地では手に入らない塩、砂糖、乾燥させた魚とを交換していた。その後、マウンテン州の人々はアラビカコーヒーやイロコス・スールのタバコを持ち帰るようになった。そして徐々にマウンテン州のさまざまな場所で気候に適していたコーヒーの栽培がおこなわれるようになった。

 

 最後の話は以下である。

 1900年ごろの話。日本のオコイOkoiという名の大工がサガダの聖公会教会のアメリカ人宣教師に雇われた。オコイは教会の宣教活動のもと、フィデリサンの最初の製材工場の建設でも働いた。アラビカコーヒーはサガダ北部のフィデリサンに、オコイによって同じ時期に宣教活動を行っていて交流のあったマスフェレを通して持ち込まれたといわれている。つまり、アラビカコーヒーの苗木はマスフェレからオコイへと渡り、そしてコーヒー栽培がフィデリサン地域へと広がっていったということである。

 

コーヒー生産と広が

 

 アラビカコーヒーの生産は、1900年代よりサガダのコミュニティ全域に広がった。人々はコーヒーをバナナ、柑橘系果物、アルノスの木などと一緒に裏庭で育て、現在に至るまでそのような形態を続けている。

フィデリサンの一地域、パイデ(Pide)には樹齢100年にもなるアラビカコーヒーの木が存在する。これらの木には今も実がなり、土地を所有する家族は、何世代にもわたってこのコーヒーを飲み続けている。また、フェデリサンのアギッド(Aguid)にも、樹齢60から80年のアラビカコーヒーの木がある。こういった古い木をもつ家族はたいていコミュニティの最初の移住者である。アラビカコーヒーは現在も彼らの収入源のひとつとなっている。

 

 コーヒーは主に栽培者の家庭用に消費され、多く収穫できたときだけそれを販売され副収入となってきた。フィデリサンのコーヒー栽培者からコーヒー生豆を買い取り、集荷・仲介業者の機能を果たしていたバウコからの行商人(そのほとんどが女性)も存在していた。コーヒーはまた、地元の人々にとっても砂糖や塩、魚、ビスケットなどと物々交換できる価値のある産物でもあった。今日では、人々は物やお金と交換するためにサリサリストアにコーヒーを持っていく。つまりコーヒーは今では換金作物として扱われているのである。

人々は近所同士でコーヒーを一緒に収穫、加工した。コーヒーの作業は、田んぼでの労働のの空き時間や “オバヤobaya”と呼ばれる人々が家にいるときに行われる習慣があった。